鳥海柵 / 地図と案内板


以下、案内板より。
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奥羽の山々から流れてくる胆沢川を南に臨むこの地、金ケ崎町西根鳥海地内に「鳥海柵」があります。
古代東北で力をもった安倍氏の十二の柵(城)の中で、唯一の明らかな柵跡です。
柵は南北約五〇〇m、東西三〇〇mの規模で東西にのびる数本の堀によって区画されています。
発掘調査で、南端の島状の台地から柱列で区画された堀立柱建物跡、
櫓(やぐら)跡などが検出され、十一世紀後半から十二世紀の年代が与えられています。
また多くの遺物が出土し、墨で「五保」の記載がある貴重な土器も見つかっています。
安倍氏と国府軍の間で起こった前九年合戦(一〇五一~一〇六二)の最中、
当主安倍頼時はこの柵で亡くなりました。またこの柵に入った将軍源頼義は
「なかなか姿を見ることができなかった鳥海柵にようやく入る事ができた」
と感激したと伝えられています。
胆沢川を挟んで南東方向約二kmに鎮守府胆沢城があることからも、
安倍氏にとって最重要拠点であったと考えられます。
鳥海柵の主は、安倍頼時の三男宗任といわれています。
宗任は前九年の役で敗れ京に送られました。
その際公卿の一人が、田舎者は梅の花も見たことはないだろうと、
一枝折って「これは何と言う名の花か」と差し出したところ宗任は、

我が国の梅の花とは見たけれども 大宮人はいかがいふらむ
(我が国の梅の花に見えるけれども、都の方々は何というのでしょうか)

と和歌で返したため、その教養や風流が高く評価されたと伝えられています。
また宗任の女(むすめ)は平泉の奥州藤原氏二代基衝に嫁ぎ、三代秀衝の母となり、
観自在王院(平成二十三年六月に世界遺産登録)を造りました。

平成二十三年八月 金ケ崎町
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