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黒澤尻柵跡
陸奥の豪族安倍氏は平安時代後期、北上川沿いや重要な地に柵を造営し、
柵主には一族をあて地域支配の拠点とした。
また、極楽寺を中心としたその周辺の寺院にも深くかかわっていたことが考えられる。
この周辺に「黒澤尻柵」が設けられ、頼良の五男正任を配した。
この地域は「安倍館」と言い伝えられる。
永承六年(一〇五一)前九年の合戦が起こったが安倍氏の勢力が強く
陸奥守兼鎮守府将軍源頼義は出羽の豪族清原氏に援軍を請うた。
康平五年秋(一〇六二)、安倍軍は源氏・清原軍と厨川柵で最後の決戦を行う。
この合戦の途中、黒澤尻柵が落ちたが、正任は出羽に逃れ、
後に投降し伊予に配流されたと言われている。
(江戸後期の民俗学者菅江真澄は天明五年九月にこの地を訪れている。)
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